当寺の由来についてご紹介します。
当寺は浄土宗「捨世派」の大徳「弾誓上人」(たんぜいしょうにん)の中興開基であります。弾誓上人は、天文二十年(1551年)尾張の国海辺郡(現在の名古屋西部)に生まれ、幼名を弥釈丸と言いました。九歳にして出家し、京都において苦錬修行、その後佐渡の檀持山や信濃の国唐沢山、相模の国塔の峰において独座念仏し法益を弘められました。
上人は、慶長八年夏(1603年)、浄土宗僧侶の幡随意智譽白道上人に相見して宗脈を伝授し、翌九(1604年)年十月箱根塔の沢に阿弥陀寺を創建。そしてこの二年後に当山を開創しました。山腹に洞窟を掘り念仏修行してこの付近を教化されたので、この地一帯を「阿弥陀谷戸」と称しています。
その後各地を遍歴した後、慶長十四年(1609年)に京都北山の古知谷に「弾誓流大本山 一心帰命決定光明山阿弥陀寺」を建立し慶長十八年(1613年)に示寂されました。御歳六十二歳。
当寺は鴨居に田・畑・山林等一万余坪を有していましたが、戦後農地特別措置法によりこれを解放しました。また上人の独座念仏した洞窟は最近まで現存しましたが昭和45年「こさか土地区画整理事業」の為に、整地埋没した事は非常に残念であります。
当山は、長い間荒廃していましたが、上記区画整理のため原地より若干離れた当地(鴨居7丁目)に移転し昭和四十八年四月当山二十四世亨侃上人が本堂・庫裏を新築致しました。その後平成十八年四月に二十五世が関内陵苑(別院)を建立し、更に平成二十二年九月に「会津村」を会津別院としました。その後平成二十六年七月に「あいづ観音浄苑」を開苑し、今に至っております。
尚、当寺は平成十八年三月まで浄土宗(総本山知恩院)に帰属しておりましたが、関内陵苑の建立に伴い、浄土宗単立宗教法人として平成二十六年五月一日付で神奈川県知事から文部科学大臣(文化庁)へ所管が変更になりました。
【寶物及び行事】
一、 弾誓上人御自刻の「弁財尊天像」
一、 六字名号板(この南無阿弥陀仏の名号板には古来より難病に霊験ありとされ、版刻して一般に施与される)
一、 潅仏会(花祭)等の行事、合同法要、法話会、終活セミナーなど随時開催しています。
令和3年1月1日
【本部】 横浜市緑区鴨居7ー4ー7
【関内】 横浜市中区翁町2ー7ー7
【会津別院】会津若松市浅山字堂ヶ入7番地
大弘山光明院法國寺
第二十五世住職 池田真理雄 記之